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ロミオ先生の大冒険記

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ロミオの大冒険(日本一周編)
自転車なら旅費タダじゃん!
これまでの総距離7000km以上、攻略したお城の数は70以上、通過した県は40県。雨にも負けず、風にも負けず、寒さや夏の暑さにも負けない丈夫な体で、ある時は山で遭難し、ある時は車に轢かれそうになりながらも、たくさんの人の笑顔と声援と優しさと心遣いに励まされて、日本一周するまでひたすら自転車をこぎ続けるという、日本で唯一無二の塾講師ロミオ先生が語る(暴露する?)大スペクタクルです!なかなか書いてる時間がないので好きなところから少しずつ書き出していくのでお楽しみに!


第21弾「関東一周の旅」

2015年4月29日(木)

午前9:15。小田原城到着。前回(第3弾2008年)来た時は国道側から入ってしかもお祭りの日だったが、今回は駅側から入ったので城内の雰囲気が違って見えた。
午前10:00。平塚駅から北上したところのコンビニで早速「日本一周ですか!」と声がかかる。今回からこれまでの旅の経歴を載せた「ロミオカード」を用意したが、ここでまず1枚目を渡した。
正午。八王子城登頂。次に川越へ向かう途中、急に町通りがアメリカンになったので不思議に思ったら、右側に米軍基地があった。あと、名前は聞いたことあったがそれが何か知らなかった「コストコ」を見つけてすっきりした。
午後4:00。川越城到着。駅に着いたが入り口がわからず、バス停にいた女性に尋ねたら階段の上を指して教えてくれた。しかもそのあと自転車を分解していると「スロープはなく、階段しかないですよ」と親切に教えてくれた。
午後7:00。東京駅到着。神田のカプセルホテルに泊まった。一つの部屋が蜂の巣のように狭かった。

4月30日(金)

午前8:45。江戸城攻略。テレビで見たことあったが、平日なのに皇居ランナーがたくさん走っていた。
午前11:00頃。千葉に向かう湾岸道路で、自転車で通学中の地元の大学生と並走した。先行して道路の悪い箇所を手で合図してくれた。
午後1:00。佐倉城到着。遠足に来ていた高校生に「頑張って下さい〜!」と大声で応援された。
午後3:00。主要な国道を走っていると突然自転車進入禁止のバイパスになって迂回させられることがあるが、今回、利根川にかかる有料橋は自転車で渡ることができてよかった。
午後7:00。水戸到着。県施設のユースホステルで宿泊し、相部屋を楽しみにしていたが、客がいなくて12畳の部屋で一人で寝るという状態に。昨夜の蜂の巣と大違いだ。夜は近くの料理屋で納豆オムレツとから揚げ定職と食べた。地元の素敵なホールでコーラスをしているという女将さんと話をした。

5月1日(土)

午前9:00。水戸藩校跡の弘道館へ行く。徳川斉昭公の遺訓の一端に触れて一教育者として学ぶこと多し。藤田東湖や天狗党など幕末攘夷に思いを馳せると血がさざ波打つ。小さな土産物屋のおばあさんからいろんな話を聞かせてもらった。
午後1:00。宇都宮到着。駅前の「健太餃子」という店で餃子を食べる。ちなみに私の本名もケンタだ。
午後5:00。日光到着。「パークロッジ日光」という軽井沢の別荘のようなとてもよいロケーションのホテルで、スタッフもゲストもほとんど外国人で、一緒に飲んで歌って話してとても楽しい夜を過ごせた。

5月2日(日)

午前9:00。日光東照宮に到着。世界遺産とはいえ1350円は高いな。色使いが緑や金や赤など派手でタイのワットを思い出す。奈良の古刹や熊野古道のほうが厳かだ。
午前11:00。足尾銅山の手前のコンビニで逆方向から上がってきたサイクラーの人に会う。足尾銅山の行き方を教えてもらった。
正午。足尾銅山到着。鉱山入り口や浴場跡などを見た。アウシュビッツや原爆ドームのように「負の遺産」として残してもらいたいと思った。
午後2:00。大間々のコンビニで地元のサイクラーの人たちに声をかけられる。「なんで自転車で日本一周を始めたの?」と聞かれてその時は答えることができなかったが、今、あらためて考えてみると、自転車でこうして人とつながれることが大きな理由の一つかも知れない。
午後4:00。足利学校跡を探すのに手こずり、見学する間もなくスタンプだけ押して次の金山城へ急ぐ。
午後5:00。猛ダッシュで金山を登ったら、スタンプ押し放題(スタンプが放置されてていつでも押せる状態)だった。足利学校ゆっくり見学すればよかった〜!石畳が特徴的だった。
午後7:00。熊谷に入って、ホテルに場所がわからず、バス停にいた女性に道を尋ねる。「日本一周ですか〜。頑張って下さい」と言われたのでまたうれしくなってカードを渡した。

5月3日(月)

午前9:00。鉢形城到着。ここもスタンプ放置状態だった。縄張りは広いが天守も櫓も門もなく、堀を少し眺める程度だった。
正午。榛名山の箕輪城に到着。山城で馬出しや堀が深くてなかなかの縄張りだった。バイオトイレがあったので使ってみた。
午後2:00。榛名山を下りてきたところのコンビニで70歳のサイクラーに声をかけられた。元競輪選手で一宮競輪で初優勝した思い出を語ってくれた。人の出会いとは不思議なものだ。

5月4日(火)

午前8:00。富岡製糸場行きの上信電鉄に乗る。自転車を分解しないでそのまま電車に乗れた。近くにいた家族連れの父親が「日本一周ですか」と言ったので、その子どもが私に興味を持ってくれた。別れ際に「僕も同じメーカーの自転車持ってるよ」と話してくれたので、恐らくこの子は将来私を越える大冒険家になると思う。
午前9:00。富岡製糸場に到着。地元の人たちの尽力でこういった歴史ある建造物が残っているということに感謝したい。まだ今でも動かせそうな機械と当時働いていた人たちを容易に想像できる雰囲気があった。
正午。群馬と長野の県境にある内山峠を越える。途中の下仁田の名産が「みそおでん」ということに驚いた。みそは名古屋のイメージだけど。
午後3:00。小諸城に到着。今日中に上田城を攻略したかったので先へ急ぐ。
午後4:00。上田城に到着。前回(2011年?)来た時は「大河ドラマ」の署名運動していたが、今回はその甲斐あって来年の大河ドラマに決定し、町を上げて「真田丸」を推していた。

5月5日(水)

午前8:00。旅館を出発したところで自転車の異変に気づく。シートポストの付け根あたりにヒビを発見。これで乗り続けてたら下手すれば大事故だ。でもここまで来たのでリアイアせず、立ちこぎで行けるところまで行くことに。昨日までは平均25kmくらいだったが、今日は20kmだ。
午前10:00。松代城に到着。甲冑隊がいたので一緒に記念写真。とりあえず先に進みたいが、このままでは時間内に目的地まで行けないので、姥捨峠は輪行することに。
午前11:00。最寄りの篠ノ井駅に到着。自転車を分解して電車に乗る。松本に向かう途中、おばすて峠の駅で電車が止まり、しばし絶景を眺める。
午後1:00。松本駅で再び自転車を組んで、松本城に到着。人がいっぱいだ。案内所の人にスタンプのことを伝えると、天守にあって現在入場制限がかかって160分待ちとのこと。するとその案内所の人が親切にもスタンプを押してきてくれることに。厚意に甘えてそこで待っていると一人の観光客が駐車場での係員の不手際と入場制限の苛立ちを私に訴えてきた。しばらく聞いていると、水戸から来たことがわかったので3日前に水戸を観光したこと、偕楽園や弘道館がとてもすばらしかったという感想を伝えた。 さらに今日は松本に泊まるということだったので、明日の朝9時前に来るとすぐ入城できることを伝えると、笑顔で去っていった。そこへ案内所の人がスタンプを押して戻ってきたのでお礼を言って別れた。
午後2:00。塩尻から岡谷へ抜けるとき、高速道路沿いの脇道を選んだらアップダウンがはげしくて予想より苦戦した。
午後3:00。岡谷駅に到着。再び自転車を分解して電車で塩尻に戻る。駅のホームで乗り換え電車を待っていると、滑舌の悪い、ねぎを背負ったおばあさんに名古屋方面の電車を訪ねられたので、私も名古屋へ行くので一緒の電車に乗ってください、と伝えた。聞けば、耳が遠くて別の人に尋ねたら全然違う方面の電車に乗ってしまって往生したそうだ。 そのあばあさんは中津川あたりの駅で降りる時、何度もお礼をおっしゃっていた。


ロミオの大冒険(世界一周編)
すべてはマレーから始まった!
これまで見てきた国の数は60以上。しかもリュック一つで歩き回る貧乏旅行。さらに紛争地帯や未開の地など普通の人が行かない(行けない?)所を好んで巡る命知らずな一人旅。コソボで地雷を踏みかけたり、ゲリラ多発地帯を陸路でくぐり抜けたことなど、下手な著者が出している旅行体験本より何百倍も面白い(怖い?)、日本で唯一無二の塾講師ロミオ先生が語る(暴露する?)大スペクタクルです!時系列で少しずつ書き出していくのでお楽しみに!


柔らかな日差しと、寒さを感じなくなった5月の風に、ふとマレーシアを思い出す。
脳に刻まれているのだろう。それほど、マレーで過ごした日々は強烈だった。
「そんなに持っていかなくていいよ、大抵の物は向こうで揃うから。」
そう言われて、俺のバッグの中身は、数枚の服と歯ブラシ、いつも使っている財布とパスポートくらいだった。
20世紀の終わり、バブルがはじけて、イチローがまだ活躍する前、
俺はまだ20代前半で、大手電機メーカーに勤めていた。
生まれて初めて搭乗した国際線は名古屋空港を離陸し、マレーシアへと向かっていた。
そしてこれが俺の世界一周の始まりだとは、まったくもってこれっぽっちも思っていなかった。

マレーシアの空港についたのは4月初めの木曜日だった。
機内から降りると、ねっとりとまとわりつくような熱気にまず驚いた。
さらに、滑走路の地平線に見える熱帯特有の樹木と変な調味料のような臭いに、ここが日本ではないことをはっきりと教えられた。
空調の利いた建物内を歩いていると尾関さんと合流した。
ビジネスクラスにでも乗っていたのだろう。
少し後ろを歩いていると、尾関さんがふと立ち止まって指を差した。
「おい、あそこにトイレがあるから見てこい。面白いぞ。」
中をのぞいて見ると、トイレットペーパーはなく、バケツが置いてあった。
そう伝えると「こっちではなぁ左手で自分のケツを洗うんだ。」と教えられた。

空港施設の外へ出ると日本人が数名待っていた。
その人たちの車に乗せられるが、行き先もこの人たちが誰なのかもさっぱりわからない。
覚えているのはあたりが暗かったこと、途中でスコールのような大雨が降りだして、ワイパーがせわしなく動いていたこと、左右に見えてきた建物が映画のセットのようにライトに照らし出されていたことだ。

40分くらいだろうか、車はあるビルの中に入っていった。
車を降りると次はエレベーターに乗って10階あたりでドアが開いた。
そこは豪華な中華レストランのフロアだった。
しかしまだ俺は状況がつかめない。
テーブルについて司会進行役が「それでは新人君に挨拶してもらいましょう。」と言われて初めて「あ、これは俺の歓迎会か」とわかった。
適当に挨拶をしたくらいで、あとは自分たちだけで盛り上がる食事会になっていた。
ある人が「これうまいから食え」と勧めてきた青ピーマンがものすごく辛かった。

会がお開きになり、みんな帰り支度を始めた。
俺はこのあとどうなるかと思っていたら、小柄でメガネで天然パーマの人が話しかけてきた。
「お前は今日はどうするんだ?尾関さーん、今日こいつどこで泊まるんですか?え?ここ?わかりました。」
そしてこの人がキーをくれて初めてここがホテルということがわかった。
「お前、お金は?ないのか。ほら、これ。チップだ。これを朝起きたら枕の下に置いておくんだ。」

キーに書いてある番号の部屋にたどり着き、ドアを開けて中に入ると、ようやく一人になった。
手荷物をベッドに置いて横になった。
しばらくするとようやく今日起こった出来事を静かに頭の中で整理することができた。
「そうか。俺は今ガイコクにいるんだ。」
なんとなく不安で、それでいてワクワクする気持ちもあった。
「これはなんだか楽しくなりそうだ!」
そう思った瞬間、天井にヤモリがくっついているのを発見!
ドキっとして周りをよく見ると、ゴキブリが絨毯の上を歩いていた。
これが俺の海外生活の記念すべき第1日目だった。


数秒かかってようやく自分の置かれている状況をつかんだ。
昨日言われたとおりの時間に下りていくと、もうすでに数名の人が食事をしていた。
よく寝たか?と聞かれて、はい、と答えはしたが、昨夜の青ピーマンのせいでお腹がピーピーだった。

食事を終え、出勤の準備をし、ホテルの外へ出ると、まだ辺りは薄暗かった。
尾関さんに続いてタクシーに乗り込もうとすると、お前はこっちだと制せられた。
気さくに話せるおっさんと思っていたが、尾関さんは副社長だということを思い出した。
別の車に乗り、日本から同行した柴山さんの運転でホテルを出発した。
昨日は日暮れだったのでわからなかったが、朝日が昇るにつれて周りがはっきりと見えてきた。
日本とどこか違うビルの町並み、並走するバイクたちの浅黒い皮膚、カッパを後ろ向きに着ている姿、日本語じゃない看板の絵や文字。
窓に流れていく景色を、俺は一つも逃さないくらいに見張っていた。
それほどすべてが新鮮だった。
1時間ほどするとパナソニックなどの大手企業が隣接する工場地帯が見えてきた。
やがて車は広い敷地の、とある工場のゲートを通過した。
どうやらここが俺の会社のマレーシア工場らしい。
車を降りて、建物の中へ入るとすぐ自販機の置いてある休憩コーナーがあり、右手に階段、左にトイレ、まっすぐ進むと左右に伸びた廊下があり、その廊下の奥が広い生産ラインだった。

階段を上った2階の一部が技術部の設計グループ室だ。
テレビやパソコンやら、こまごまとした部品の入った棚が雑然と置いてある様子は日本で俺が毎日出勤してた会社の部屋と似たような雰囲気だが、違うのは明らかに日本人じゃない人間がいることだ。
まずは工場長のところに行って指示を仰げ、ということだったので、案内されながら広い工場の中を、他の人にぶつからない程度にキョロキョロしながら歩いて行った。

工場長は30歳くらいのマレー語がペラペラの小酒井という人だった。
「よーし、新人。まずは1週間、ラインに入って部品つけだ。」
「え?部品つけって、あの現地の人達がやってるあの単純作業ですか?」
「そうだ。」
「いやです。」
小酒井さんは明らかに怪訝そうな顔をした。
無理もない。日本から初めて来たペーペーの新人が指示に従わないのである。
俺は続けた。
「私はこの人たちの10倍以上の給料をもらっているんですよ。だからもっと重要な仕事がしたいです。」
この日から小酒井さんは挨拶をしても返事をしてくれなくなった。

昼休み、俺は尾関さんに呼び出された。
「お前、工場長の言うことを聞かなかったらしいな。」
「はい。」
「理由は聞いた。じゃあ、お前には重要なことをしてもらおう。」
そう言って、副社長は立ち上がった。
一緒に工場内を歩きながら仕事の内容を聞いた。
それは、この工場内をくまなく歩き、どうすれば会社全体の利益が上がるか、どこに問題点があり、どこを改善すれば生産性が向上するのかを見つける、というものだった。
それは面白い!即決で「わかりました」と伝えた。
それから俺のマレーシア工場での仕事が始まった。
好きな時間に好きな部門や部署に行って、あれこれ見たり聞いたり、時にはやらせてもらったりした。


「不二家のネクターみたいだな。」
俺は自販機で買ったジュースを飲みながらそう思った。
出勤するとまず入口の休憩所でジュースを飲むのだが、パッケージを見ても、どれがおいしいのかわからない。
一番まともそうなのを選んだら、マンゴーっぽい味がして、喉越しがドロっとしていた。

朝礼が終わって、いつものように工場の方へ向かおうとすると、部長の榊原さんに呼び止められた。
「今日は、現地人にテレビの仕組みを教えてやれ。」
紹介された現地人は2人。どちらも20歳くらいの青年だ。
何語で話せばいいのかわからず、とにかく部品の名称を言い、あとは身振りで説明をした。
2時間もするとこの作業にも飽きてきて、ちょっと英語で話しかけてみた。
「えっと〜、ここまでの説明なんだけどさぁ、ドゥーユーアンダースタン?」
「まぁ、だいたい。」
「!!!」
流暢な日本語である。
「え?キャンユースピークジャパニーズ?」
「ペラペラだよ〜。」
拍子抜かれたというか、そのユーモアな性格に惹かれ、俺はすぐ彼らと打ち解けた。
聞けば、学生の頃、7年くらい日本にいたらしい。
「俺はシュクリ。シュークリームって覚えてくれ。で、こいつがムスタファ。ムースって覚えるといいよ。」
「シュクリとムースか。俺はケンタ。よろしく!」
それから彼らとはよく行動を共にすることになる。

昼ごはんは工場の離れにあるでっかい社員食堂で食べる。
従業員が1000人くらいいるので、昼休憩のチャイムがなると民族の大移動だ。
日本人の社員らは隅の方で、近くの日本料理屋の仕出し弁当を食べる。
俺も初めはわからなかったので700円もするその弁当を食べていたが、なんとなく現地人との乖離というか「お前たちとは身分が違うんだ。俺たちはエリートでお前たちは奴隷なんだ。一緒に食えるか!」みたいな感じがして嫌だったのでシュクリたちと仲良くなってからは、現地人と混ざって食べることにしていた。
するとよっぽど珍しいことなのか、フレンドリーな国民性なのか、すぐに俺の周りにはたくさんの現地人が集まって、たくさんの仲間ができた。


4日ほどすると、俺の寝泊りする場所が変わった。
マレーシアの首都クアラルンプールの中心地から車で30分くらいの郊外にあるマンションだ。
フェイバーハイツと言う名前で、地上は20階建て、地下は3層の駐車場というビルが3棟あり、入口にはガードマンつきのゲートがある高級なマンションだった。
その中の一番ゲートに近いA棟の11階、エレベーターを降りて右廊下の突き当たりの部屋だった。
俺の来る前に中井さんという人が使っていたそうである。
格子付きの玄関を開けると15畳くらいの広いダイニングキッチン、進んで右手奥のドアを開けると6畳くらいの寝室、そして戻す形で風呂とトイレと洗濯機があった。
1人で住むには十分な広さである。
冷蔵庫、洗濯機、テレビ、クーラー、電話機、ベッドなど、大抵の物は揃っていたので、特に買い揃える必要はなかったが、エアコンの効きが悪かったことと、ベッドマットのスプリングが壊れていたのと、布団についていた臭いが少し気になった。

日本では週休2日だったが、こっちは週休1日なので日曜日は貴重なオフだった。
そんなある日曜日に、柴山さんが「買い物に連れてってやるよ」と言ってきた。
恐らく上からの命令で俺の世話係になったのだろう。
歳は28くらい、背が低く、浅黒い肌で、口数は少ないが、たまに吐く言葉には鋭さがあった。
初めて見たのは、俺が入社してしばらくした頃で、マレーシアから帰国した彼の姿を見た時「これがマレーシア人か〜」と思った。
その後、普通に日本語で会話しているのを見て「ひょっとして日本人か?」と思ったくらい風貌が日本人離れしていた。

マレーシアでは半数がTOYOTAなどの外国産だったが、近年、ようやくプロトンという国産車が出回り始めた頃だった。
柴山さんは深緑色のプロトンを持っていたので、会社に行く時はいつもこれに乗せてもらっていた。

約束の時間にいつもの集合場所に行くと、助手席に中井さんが座っていた。
この人は29歳くらいで、少し太め、丸刈りで、大仏のように顔のパーツが大きい。

「あの建物は世界で一番高いツインタワー。444mあるよ。」
「あそこに見える駅、あれは国際駅で、ジャッキー・チェンの映画の撮影にも使われたんだ。」などと教えてもらいながら、車は市街地へ入っていった。
建設中のモノレールがあったり、東京にも劣らない高層ビルが立ち並び、来る前に予想してたイメージよりずいぶん都会だった。
ロット10と呼ばれるショッピングモールに車を止め、そこから買い物が始まった。
「欲しい物は何だい?」
そう聞かれたので、俺は「腕時計」と答えた。
マンションにあるプールで泳ぐ時に、タイムを測りたかったのだ。
時計を見ながら泳ぐのは高校の時の部活の名残である。
じゃあ、ということでその巨大なショッピングセンターの中を、中井さんを先頭に歩いて行った。
エレベーターやエスカレーターを乗り継いで、最初に着いたのは高級ブランドの時計店だった。
俺が「いえ、耐水性の安い物でいいです」と伝えたら、今度は隅の方でカート売りしている店に連れてこられた。
どれも数百円程度の中から、俺はめぼしい物を見つけて、中井さんに「これ、水の中でも大丈夫ですかね?」と尋ねた。
中井さんは真顔で「ウォーターレジストと書かれてるから大丈夫だよ。」と言ったので、それに決めた。
こうして、初めのうちは、中井さんと柴山さんに買い物や観光に連れてってもらい、頭の中にクアラルンプールのマップが作られていった。


工場での日々を重ねていくうちに、いろいろなことがわかってきた。
まず人種。
一番多いのがマレー系で半数くらい。ついでインド系とバングラデシュ系が2割ずつで、中華系が1割。
面白いのは、個々で見ると、ジャイアンみたいな奴、暗い奴、メカに詳しい奴、ムードメーカーなどそれぞれ性格があるということだ。

次に宗教。
マレーシアはイスラムの国なので金曜日の昼休みだけお祈りの時間が設けられていた。
イスラム教では禁酒、禁煙、豚肉食の禁止など厳しい掟がある。
ある時、お祈りの時間にシュクリとムースが仕事場にいたので「行かないの?」と聞くと「いいの、いいの、俺たちは悪いモスリムだから」と言って、タバコをふかしていた。
モスリムにも敬虔な奴といい加減な奴がいるらしい。

そして食事。
代表的なものはミーゴレンと呼ばれる焼きそばとナシゴレンというチャーハンだ。
あとは基本的にご飯の上にカレーのようなものをトッピングしていく形式だ。
一度、インド人がカレーを手で食べているので真似してみたが、なかなか難しかった。

食べ終えると、俺はいつも社長室に行くことにしていた。
座り心地の良いソファがあったことと、そこだけ休憩時間もクーラーが効いていたこと、そしてその部屋に一番早く日本語の新聞が届くからだ。

しばらくすると、社員食堂のメニューに飽きてきたので、マレー人で車持ってるナヒムに頼んで、4人で近くのショッピングモールに外食に行ったことがあった。
工場に戻ると、尾関さんに注意を受けた。
「お前の身に何かあったら、俺が責任取るんだぞ。どっか行くときは一言言え。」
というわけで、それから俺は一言伝えてはいろんな所へ行った。

住んでいるマンションはとにかく高級だった。
A棟には床屋とクリーニング屋があり、B棟にはレストランがあり、C棟にはコンビニと室内トレーニング室、スカッシュコートがあった。
そして、3つのマンションに囲まれる形で屋外プールがあり、A棟の横辺りにテニスコートがあった。
俺は先週買った耐水性の腕時計をつけて早速プールに入った。
すると時計の液晶画面が消えて再びつくことはなかった。
翌日、そのことを中井さんに伝えると「あっはっはー、バカだなー、水につけると壊れるに決まってるだろー」と言われた。
実は中井さんは真顔でウソをつくという技の持ち主だった。
まだマレーの暑さに体が慣れず、エアコンの効きも悪かったので、窓を開けようと思ったが、網戸がないため、蚊が入るしな〜、と困っていると、中井さんが「桑原君、大丈夫だよ〜。蚊はね、11階の高さまでしか飛んでこないから〜」と言ったので、その夜、窓全開で寝たら、ボコボコに刺された。
次の日、中井さんにそのことを言うと「あっはっは〜!だめだよ〜窓なんか開けて寝ちゃ〜。蚊〜入ってくるに決まってるだろ〜」と言われたこともあった。 その前も、ムースとツインタワーの話をしてたら、高さが447mと言われたので、中井さんに確認にしたら「そっかー、なら3m伸びたんだね」と言われた。
それ以降、中井さんの話は全部流すことにした。


マレーシアでの生活も1ヶ月が経ち、ようやく連休がもらえた。
ゴールデンウィークである。
しかし、3日間しかなかったので、俺は隣国のシンガポールへ行くことにした。
ホテルを手配し、簡単な荷物とパスポートを持って、クアラルンプールの旧市街にあるバスターミナルから、ボロい国際バスに乗って出発した。
国道とはいえ地方へ行くと道はガタガタだ。
途中、休憩を挟みながら、バスは砂埃をあげて、シンガポールとの国境に近い、ジョホールバルという町に着いた。
そこのバスターミナルでバスを乗り換え、シンガポールへ入国する橋の手前で簡単なイミグレがあり、パスポートにスタンプが捺された。
橋を渡り終えると、近代的なビルが立ち並ぶ街の中へ入っていった。
バスを降りて、電車に乗り換え、中心地のオーチャード通りに出た。
マーライオンには興味がなかったので、地下鉄でラッフルズホテル通りに行って、まずはお土産を買うことにした。
ティファニーで指輪を買ったとき、店員が英語でも現地語でもないような言葉で何か伝えてきた。
よく聞き取れなかったので聞き返すと、「オシハライワ、ゲンキンデスカ、カードデスカ?」と言った。
久しく日本語を使っていなかったので、ふいをつかれて驚いた。
店を出ると、小雨が降り出していたので、少し雨宿りをしていると、日本人観光客のような女性が2人いたので、話しかけた。
案の定、日本人で横浜から来た20歳のOLだった。
俺は特に予定もなかったので、彼女たちと一緒に回ることにした。
一旦、ホテルでチェックを済ませ、マウントフェイバーからケーブルカーに乗り、夕日が沈むシンガポールの景色を見ながらセントサ島へ渡った。
そこのレストランで夕食をし、光と音の噴水ショーを見て楽しんだ。
そこで彼女たちと別れ、タクシーを拾って、ホテルに戻った。

翌日は、インド人街や中華街などをうろついた。
シンガポール名物のシクロ(人力自転車)に乗ろうと思ったが、全然見かけなかった。
夜になってナイトクラブへ出かけた。
入口にボディガードのようなスーツの黒人がいて、「ハウアーユー?」と言うから、「ファイン」と答えると、「ノー、ハウオーダーユー?」と聞こえたので、あぁ年齢確認か、と思い、「22歳」と答えた。
中は80年代のディスコのようだった。
あんまり楽しそうな雰囲気じゃなかったので、ドリンク1杯とバンドの生演奏を聞いて出てきた。

往きと同じじゃつまらないので、シンガポールからは電車で帰ってきた。
その翌日、仕事を定時で終えると俺は柴山さんの車を当てにせず、タクシーを呼んで、一人クアラルンプールに向かった。
2日前に出会った日本人の女の子たちと待ち合わせていたのだ。
ハードロックカフェで一緒に酒を飲みながら久しくしていなかった日本語の会話を楽しんだ。
その一人、成田友香ちゃんとは帰国後もしばらく文通することになる。


毎週金曜日の夜になると、住んでいるマンション前の通りでナイトマーケットが開かれた。
小さな屋台が通りの両側に100軒ほど連なっていて、マレーシアの蒸し暑い夜を原色の光が彩り、異国の雰囲気を醸し出していた。
俺はよく服屋でTシャツを買ったり、色鮮やかなフルーツが並ぶ店でドリアンを買ったり、CDショップで現地の曲や洋楽のテープを買ったりした。
その頃流行っていたのは「マカレナ」で、よく耳にした。
個人的にはイギリスのバンド、クランベリーズにハマり、「oda to my family」や「zombie」などをよく聴いた。
「そういえば、今、日本ではどんな曲が流れているんだろう?」
ふと、日本の最新チャートが気になったので、日本にいる同期の奴に頼んで、日本で今流行っている曲をカセットテープに入れて送ってもらった。
その中で印象に残っているのは、スピッツのチェリーだ。


しばらくすると、もう一人、同期の奴が日本からマレーシアに出張しに来た。
そいつは車を持っていたので、とても役に立った。
そいつの車で、銀製品で有名なロイヤルスランゴールの工場見学に行ったり、水上バイクをやりに海水浴へ行ったりした。
そして、ある日、ゲンティンハイランドに行くことにした。

「とにかく大金持ちしか入れないよ。」
噂はいろいろ聞いていた。 ギャンブル禁止のマレーシア国内で、唯一ギャンブルが合法であること。
スーツにネクタイ着用など、正装していないと入れないこと。
現地人は入れず、ブルネイの石油王や華僑の大富豪など、ひと握りの金持ちしか入れないことなど。
聞けば聞くほど行きたくなったが、これまで誰も連れてってはくれなかった。

クアラルンプールの郊外、車で1時間ほど行った山の頂きにゲンティンハイランドはあった。
その中腹のドライブインで休憩していると、現地人が俺らに話しかけてきた。
「お前ら、ゲンテインハイランドに行くのか?やめときな。お前らのような貧乏人が行っても負けるだけだ。」
「なんだと、コノヤロー!ジャパニーズマネーをナメんじゃねー!」
「ハッハッハ!本当の金持ちは自家用ヘリコプターで山頂まで行くんだよ。」
むむ!そんなにすごいのか。
ますます見たくなって、俺たちは再び車に乗り、頂上を目指した。

曲がりくねった山道を登りきり、視界が開けると、そこは一大リゾート地だった。
大きなホテルが立ち並び、ゴルフ場やテニスコート、プールなどが見えた。
車を止め、ネクタイを締め、中に入る。
外観と同じく内装も豪華だった。
レセプションに尋ねると、カジノは2階ということだった。
案内どおり、エスカレーターに乗り、ゲートをくぐると、そこはまさにギャンブルフロアだった。
客はいたが、フロアが広すぎて、閑散とした雰囲気だった。
無人のメダルマシンエリアや鮮やかな緑色のラシャが貼ってあるトランプカジノコーナーなどがあった。
どうやらすべて専用のチップでプレイするようだ。
近くの係員に聞いて、換金所へ向かった。
持ってきた全ての軍資金を渡すと、おもちゃのようなプラスチック製の黄色いチップが2枚返ってきた。
「えっ?これ1枚10万なの?」
まぁいい。これを元に増やせばいい。
同期の連れに「お前は?」と聞くと、「俺はやめとく」と言った。
しばらく2枚のチップを持ってウロついたが、俺がルールを知っているのはルーレットとポーカーとブラックジャックだったので、ブラックジャックの席に着いた。

俺がチップを置くと、トランプを配っていた女性ディーラーの手が止まり、俺に言った。
「こちらは青チップ以上のテーブルです。黄色以下のテーブルはあちらになります。」
そう言って、手のひらで別のテーブルへ促された。
確かによく見たら同じテーブルについている客の手元には赤や青のチップが山のように積んであった。
ということは、青チップや赤チップは1枚50万円や100万円ということなのか。
するとあのテーブルの上で行ったり来たりしている金額は数千万とか億ということか。
仕方なく、俺は案内されたテーブルの方に行った。
1つのテーブルが半円状をしており、その中心にトランプを配るディーラー、そして円周上に5つの席があり、そこにディーラーと対戦する客が座っていた。
しばらく見ていると、1番左端の席が空いたのでそこに座った。
ディーラーが目で「やるの?」と言っていたので、俺は持っていたチップを2枚出した。
するとディーラーが慣れた手つきで俺の目の前にトランプを2枚配った。
見ると15だった。
「やばっ!」
これでディーラーが16以上なら一瞬で20万円が消える。
わざわざ休みの日に何時間もかけてこんな山に来て、5分も遊べずに終わるのか!?
ディーラーのカードがめくられる・・・・
「10」「6」・・・
「終わった・・・」
と思った瞬間、ディーラーがもう一枚カードをめくった。
「10+6+6=22。ということは俺の勝ちか?!」
気がつくと俺の目の前のチップは4枚になっていた。
俺はそのチップを握るとすぐに席を立ち、さっき行った換金所へ走った。
先ほどの20万がわずか5分で40万になった。
「よし、これでいい!」
その様子を見ていた連れが「俺もやろうかな」と言い出して、チップを買い、ポーカーのテーブルに着いたが、一瞬で消えた。
俺たちはカジノフロアを出て、1階の広いラウンジでマイロ(日本語発音でミロ)を優雅に飲み、まだ陽の高いうちにクアラルンプールへ戻ってきた。
実は、ゲンティンハイランドに行く前にその連れとある約束をしていた。
「俺は今日、1ヶ月分の給料を全部つぎ込むから、もし俺が勝ったら今日の昼めしをおごってやるよ。
もし負けたら1ヶ月間、めしを食わしてくれ」と。
裏通りの一角にあるさびれたレストランで俺たちは少し遅めのランチを食べた。


「バンド活動がしたいからです。」
これが俺のマレーシア出張を断った理由だった。
出国前の2月頃、俺は数いる同期や先輩たちを差し置いてマレー出張に抜擢されたが、全く興味はなかった。
しばらくすると今度は社長に直々に社長室に呼ばれた。
社長はこう言った。
「マレーシアはいいぞ〜。飯はうまいし、手当がたくさんつくから金は貯まるし、なによりマレーシアの女は綺麗だぞ〜」
というわけで、大好きなバンド活動を休止し、メンバーに断り、俺は出張を決断した。

何が言いたいかというと、金や女に目がくらんだことではなく、日本を離れて2ヶ月、全く楽器も触らず、作曲活動もしていなかったので、無性に音楽を奏でたくなった、ということだ。
俺はKL(クアラルンプール)で電子キーボードを買うことにした。
はじめは電話でタクシーを呼びつけていたが、そのうちバスを使うようになったのは、運賃が20倍くらい違うことと、現地の人の生活感を少しでも感じたいからだ。
マンションを出て、坂を下り、右に曲がると国道沿いに出る。そこで手を挙げるとバスに乗れるのだ。

中心街にはLOT10やヤオハン、SOGOなど大型デパートが建ち並び、俺は何軒かの楽器屋を見て回った。

ちなみにこれらのデパート内には何軒かの両替所があり、各店でレートが少し違うので、なるべく一番よいレートの店で両替することにしていた。

ランチタイムになり、俺は近くのマックに入った。
店内はすいていたが、俺はカウンター席に行き、壁を見ながらハンバーガーを食べていた。
しばらくすると、右隣りから声がした。
「アーユーフロムジャパン?」
見ると現地人らしき夫婦がこっちを見ていた。
俺が「イェアー」と答えると、奥さんのほうがこう言った。
「私の妹が今、日本の大学に留学しています」と。
「それは奇遇ですね。なんという大学ですか?」と俺が尋ねると、「ワセダです」と返ってきた。
「そうですか。実は私の弟も今現在同じ大学に在籍していますよ。ひょっとしたら向こうで会ってるかもしれませんね。」
なんという偶然だろう。
話が弾み、彼らといろいろ話をした。
「そうですか。よかったら主人の車で他の楽器屋を案内しましょうか?」
それはありがたい。マックを出ると早速ご主人の運転する車に乗せてもらい、2軒ほど楽器屋を見た。
結局,その日は気に入った物がなかったので買わなかった。
「よかったらこれからうちに遊びに来ませんか。ご飯をごちそうしますよ。」と奥さんが言った。
これも何かの縁、マレーシアでのよい思い出になると思い、俺はご好意に甘えることにした。

30分ほどすると車は郊外の一軒家が建ち並ぶ閑静な住宅街のある家の敷地内に入って止まった。
2階建ての普通の住宅だった。
家の中に入るとリビングがあり、そこのソファに促されて俺は座った。
話好きな奥さんは奥の台所へ行って調理を始めた。
俺は主人と2人きりになった。
俺はもう話すこともないなぁ、と思っていると主人が話し始めた。
「君はゲンテインハイランドを知っているかい?」
俺はつい先週行ったばかりだと伝えた。
「そうか、なら話は早い。実は私はゲンティンハイランドでディーラーをしているんだ。そこに私の知人を呼んで『イカサマを教えるから儲けたお金を2人で山分けしよう』と持ちかけたんだ。しかし、そいつは儲けさせたお金をいつも独り占めしてしまうんだ。悪い奴だろう。本当に私は悔しい。そこで君に頼みがある。実は今日、その知人が私の家でプライベートカジノをやることになっている。君にはそいつと対戦してほしいんだ。大丈夫、絶対に勝つように私がイカサマを教えるから。」
なんだか雲行きが怪しくなってきたぞ。
しかし、俺の中で好奇心のほうが危険性を上回ったので「じゃあ、やりましょう」と答えた。
そこへ台所から奥さんが料理を運んできた。
話はそこで中断となり、3人で食べながら、またとりとめのない話をした。
食べ終わると俺は主人に2階へ案内された。
ドアを開けると真ん中に羅紗を張ったテーブルが1つ置いてありカジノをする準備が出来ていた。
席に座ると主人が言った。
「君はトランプで何を知ってる?」
「ブラックジャックなら」
「じゃあ、ブラックジャックにしよう。最初にカードを2枚ずつ配る。そのうち1枚は裏で、もう1枚はオープンにしてある。その隠れた相手のカードを私が手でサインを送るから、それで勝てると思ったら賭ける。負けてるなら降りればいい。」
そう言って彼は私に片手の指を折りながら、1〜10までの数字のサインをレクチャーしてくれた。
2、3回確認すると、下の階でチャイムが鳴り、1人の男が部屋に入ってきた。
歳は50歳くらい。現地人特有の浅黒い皮膚で、シワが多く、背は普通、やせ型だった。
主人が仲立ちし挨拶を交わすと、俺の手をさすりながら「私は君みたいな若くてかっこいい男の子好きよ〜」と言ってきた。
俺は気持ち悪くなって手を引っ込めた。
「彼はブルネイの石油王だ」と主人が紹介した。
なるほど、手や首には金のネックレスがジャラジャラついていた。
俺とブルネイの石油王が対面に座り、サイドにディ−ラー役の主人が座って対戦が始まった。
まずは10万で勝負ということになった。
カードが配られる。
ディーラーの手を見る。
頭の中で計算をする。
金をお互い賭ける。
カードをオープンする。
俺が勝っている
全て打ち合わせ通りだ。
石油王がもう1回だ、という。
再びカードが配られる。
そしてオープンすると俺が勝っている。
これを数回繰り返しているうちに、石油王の顔がだんだん険しくなってきた。
石油王は「レートを上げよう」と言ってきた。
俺は負けることはないので気楽に「オッケイ」と答える。
もちろん結果は同じだ。
ついに石油王は怒り出した。
「今日はなんてついていないんだ!よし、こうなったら最後の勝負だ!今までのは全てチャラにして、100万ドル(1億円)を賭ける!」
そう言って、持ってきたスーツケースをテーブルの上に置き、俺の方に中身が見えるように開けた。
中には米ドルが束になって詰まっていた。
「すごい・・・。」
俺は頭の中で考えた。
これで勝てばこのイカサマを教えてくれた主人と2人で分けても、一人5000万円だ。わははは!
俺は即答で「やりましょう」と答えた。
これまでと同様に2人のプレイヤーの前にカードが2枚配られる。
石油王のオープンカードは「10」、俺の手札は「10」と「10」で合計20、そして右にいるディーラーの手を確認すると「9」の合図!
(よし!!!5千万もらった〜〜〜!!!)
俺は心の中でガッツポーズをしていた。
「オープン」の掛け声を待っていると「ウェイト!」と石油王が言い出した。
「俺は今、確かに100万ドルを持っている。しかし、もし君が負けた場合、ちゃんと100万ドル払うことができるのか?」
(は?何を今さら。どうせ俺が勝つんだからそんなことどうでもいいだろ!)と俺は思ったが、石油王が続ける。
「君がこの場に100万ドルを用意したらこの勝負の続きをやろう。どう?」
(面倒くせーなー。)
「わかった。じゃあこの日本人君がお金を用意するまでそのカードは私が預かっておこう。」とディーラーが言い出した。
(何だよ、この展開。もう少しで大金が手に入るのに)と俺は思っていたが、結局、そういう方向で話がまとまり、お互いのカードはそれぞれの封筒に入れ、サインをし、金庫の中に厳重に仕舞われてしまった。

石油王が出て行くとディーラーは言った。
「君はいくら用意できる?」
「200万くらいなら。でも日本の銀行にあるから・・・」
「OK。じゃあその200万を早急に用意してくれ。私が残りの9800万を用意するから。」


俺は相変わらず体にまとわりつく熱帯特有の空気を感じながら、ぼんやりと窓の外を見ていた。
所持金が100万、1000万とみるみる増えていくあの昼下がりの体験は夢だったのか。
しかし、電話の横にはあの日確かにもらったメモ紙がある。
そこにはあの強烈な体験をしたマレーシア夫妻宅につながる電話番号が書いてある。

時々あの主人の妹と名乗る人がニホンゴで「オカネ、ヨーイ シタ?」という電話がかかってきたが、俺は「いや、まだだ。」と言っては電話を切った。 そんなやりとりが10日ほど続いたが、俺はお金を用意する気はなかった。

ある日、新聞で面白い記事を見つけた。
「日本人会社員が現地人に違法ギャンブルに誘われて、現地人宅でプライベートカジノに興じたところ、大負けして所持金を全て取られ、裸で街を歩いてたところを警察官に補導された」と。
「マクドナルドで声をかけられ・・・」というところまで一緒で笑えたが、俺が新聞に載る可能性もあったわけだ。
もちろん、俺は最初から警戒していたし、いつでも逃げられるように用心していたが。

決定的だったのが、先に俺の所持金を聞いたことだった。
9800万用意できるなら、はじめから俺の所持金なんてアテにせず、1億すぐに用意すればいい。
どうせ、すぐに5000万ずつ手に入るのだから。

さらに言えば、石油王のアタッシュケースもおかしい。
勝負の前から負けるつもりで大金を持ってくる奴はいないだろう。

そもそも、もしあの日俺がいなければ、誰が石油王の対戦相手をするのだ?
とにかく怪しいところを挙げればキリがない。

ちなみに出された焼きそばのような食事は、夫妻が食べるのを確認してから、食べるふりをしてすばやく交換した。
睡眠薬防止のためだ。

ついでにこのあとのトリックを説明しよう。
俺が200万を持ってあの勝負の続きをしたとする。
すると石油王のカードが「10」と「11」になっているはずだ。
もちろん、サインをした封筒に開けられた跡はない。
なのになぜ「9」のカードが「11」になっているのか?
カードが入れ替わったんじゃなくて、はじめから「11」のカードだったのだ。
つまり「11」のカードを配っておいて、ディーラーは俺に「9」のサインを出したのだ。
そうなると相手は「10+11=21」、俺は「10+10=20」で俺の負けになり、俺は200万どころか、身包みはがされて・・・あとはあの愚かな日本人会社員の刑となるわけだ。

夕食はたいていB棟のレストランで「favor flied rice」と「oolong tea」を注文した。
うまいというよりは、食べられそうなものを選んだらこれに行き着いた、という感じだ。
ただ、トッピングのきゅうりのスライスが直径10cmくらいで驚いた。

また、高級マンションとはいえ、熱帯地方の発展途上国なので、壁にはたくさんのヤモリがへばりついていた。
ある夜、帰宅して玄関の電気をつけたとたん頭にヤモリが降ってきたのには閉口した。

「歯磨き粉」の味や「石鹸、洗剤」の香りも、日本では嗅いだことないものなのでしばらく違和感があった。

「牛乳」も日本と異なり、文字通り無調整なので、冷蔵庫に入れておいても3日目には噴き出すほど違う味に変化した。

そんなある日、いつものように仕事をしていると急に歯が痛くなった。
健康には自身があるし、虫歯なんか小学校以来で、あの例の変な味の歯磨き粉のせいか?それともシラップ(カギ氷の蜜のような甘くて赤い水)ばっかり飲んでいたせいか?といろいろ考えるが痛くてたまらない。
尾関さんにそのことを伝えるとすぐに歯医者へ行く手配をしてくれた。
体のでかいインド人が運転する車に乗って10分ほどすると、片田舎の古びた建物に着いた。
案内されて薄暗い階段を上ると小さな診療所があった。
促されて治療椅子に座り、口を開けた。
医師はインド人女性だった。
しばらく俺の口内を見てから首を振り「difficult」と言った。
(医師のお前がそんなこと言うと、めっちゃ不安になるがや!)
そう思っていると、私の歯に糸をくくりつけ、そのもう片方の先端をドアノブにくくりつけようとしていたので俺は「ウェイト!ウェイト!」と叫んだ。
それは明らかに漫画で見る原始的な抜歯方法だろう!
俺は自分がまだ20歳そこそこであることを伝え、できれば抜かない方向で治療するように頼んだ。

時々、仕事上がりに未婚の日本人スタッフで夕食やナイトクラブに行った。
真ん中のテーブルがくるくる回る中華料理屋など、日本ではなかなか行けない高級店も頻繁に行けるところに「日本円」の強さを感じた。
この時も「バカだな〜、柴山君。左って言ったじゃないか〜」
「中井さんが右って言ったんじゃないですか〜!」というやりとりを後部座席でよく聞いた。
ナイトクラブではカラオケがあって、サザンの「エロティカセブン」を歌ったのを覚えているが、この頃になると、日本語よりも英語やマレー語のほうがすんなり口から出てきて「サヤは〜エロティカ〜トゥジョ〜♪」なんて歌っていた。

そんな中井さんとペナン島にある下請け会社に出張に行くことになった。
「外国をまたにかけるやり手ビジネスマンみたいでかっこいい!」と思ったが、気分は日帰り旅行だった。
国内線飛行機とタクシーで子会社に着くと中華系の若い子がテキパキと働いていた。
英語もマレー語も日本語もあやつり、俺にいろいろ質問をしてきて非常に勉強熱心だな〜と感心した。
よく上司が「近い将来、日本は中国や韓国やマレーシアに抜かれる」と言っていたが、この子といい、ムースやシュクリを見ていると「そうなるかも?」と妙に納得した。

うちの会社は本社は日本にあったが、工場や支店などは世界中にある、いわゆる大企業だ。
「日本の電機業界の未来はうちの会社かパナソニックが背負って立つだろう。」ということを聞かされたことがある。
確かにマレーシア工場はでかかった。
工場の敷地面積だけでもかなり広かったが、その奥にもサッカー場2面ほどの広大な空き地があった。
そんな広い工場内だったが、2ヶ月もするとたくさんの仲間ができた。
特に女の子にはよくモテた。
それは、俺がベルサーチのスーツでビシっとキメていたからというよりは、いつも工場内を副社長の尾関さんとツーショットでいたから「社長の御曹司」と誤解されていたからだと思う。
ある日、とある生産ラインの1セクションの遠足に誘われた。
「それは面白い!」
俺は即決し、当日の朝、工場に着いたが、集合時間過ぎても、なかなか全員が集まらない。
結局、1時間以上過ぎて出発することになった。
日本人は10分、5分前集合が当たり前だ。
だが俺は待たされるのが嫌いなので大抵集合時間ぴったりに行く。
この時「マレーシア人は時間にかなりルーズだ」と思ったが、のちのち「外国人は時間にルーズだ」=「日本人は時間にしっかりしている」という考えに変わっていく。

そしてこの遠足によって時間感覚だけでなく、いろんなことで国民性の違いを感じることができた。
バス1台で30人くらい乗っていたが、普段の会社やマンションと違って、この日の日本人は俺だけであとはみんな肌が浅黒い奴らばかりだった。
背の高いインド人が取り仕切って、みんなから20リンギット(800円)ずつ徴収して、買ってきたアルコールをガンガン開け、さらに大音量でインド音楽風のダンスミュージックを流し、みんなで歌い踊り騒ぎまくった。
窓は全開、ドアも全開、さらに運転手もビール片手にノリノリで、急ブレーキするわ、蛇行運転するわ、急ハンドルを切って人が外に転げ落ちるわ、誰かが「ションベン」と言って、外で用をたしていたら、そのまま置いていくわで、めっちゃくちゃ楽しかった。
マレーシアに来て、たまに道路脇に転倒しているバスを見かけたが、その理由がわかった。

そんなノリで1時間くらいすると、目的地に到着した。
山の中の川だった。
バスを降りて、荷物を置いて、各々着替えて、川へ飛び込んだ。
変な光景だったのは、モスリムは人に肌を見せないという規律があるので、服を着たまま川水浴をしていたことだ。
それ以外の奴は水着だったが、面白かったのは、俺は川の水が冷たくて気持ちよく感じていたが、隣の黒人といってもいいくらい肌の黒いいつも陽気なインド人のバルが震えていたことだ。
マレーより暑い国で育った奴にはこの水温は氷水のように感じるのだろう。

このマレーシア出張は、仕事という意識からか、写真を撮っていないが、この時はパラニという機械マニアがカメラを持っていたので、珍しく写真が残っている。
それを見ると、人種の垣根なんか微塵もなく、一人の地球人としてみんなと楽しんでいる俺がいる。

一通り遊び終わり、バスに戻ると、1本しかない帰り道をふさぐように他の観光客の車が止まっていた。
すると、みんな当たり前のように集まって、1台ずつ車を手で持ち上げて、どかした始めた。
楽しくなって、俺も一緒に数台の車を持ち上げては動かした。
日本ではできないこういった経験が、このあとの俺の性格形成に大きく関わっていくことになる。


マレーの気候にも、生活習慣にもすっかり慣れた6月の終わり頃、珍しく連休があったので、新たな刺激を求めて、ランカウイ島に行くことにした。
ただ、金曜の仕事上がりの夜に出発して、月曜日の早朝に帰宅してそのまま出勤するという超弾丸旅行だ。
バスで30分ほど離れた、小さな丘の上に立つ何かのセンターの一角にある旅行会社で前もってホテルなどの予約手続きをした。
金曜の夜、仕事を終えると、すぐにタクシーでマレー鉄道のクアラルンプール国際駅に向かい、寝台列車でアロースターというタイの国境近くの町まで眠った。
早朝、駅に着くと、次はタクシーでクアラ・クタというさらに小さな田舎町まで行き、そこからフェリーでランカウイ島に渡った。
島に渡るとすぐにバイクをレンタルした。
日本では、いつも通勤で乗っていたが、マレーに来てからは初めての運転なので、すごくワクワクした。
何と言っても、自由に動けるのがいい。俺の性格にぴったりだ。
まだ陽のあるうちに、ガイドブックを片手に、いろいろ見て回った。
島内には信号機が港付近に3機しかないということだったので、海や山を見ながら風を切って気持ちよく走れた。
すると遠くから、道の真ん中に大きな石があるのが見えたので、近くまで行って避けようとした瞬間、その石がのっそり動き出した!
慌ててハンドルを切り、ブレーキをかけて振り返ると、イグアナだった。
あのサイズの爬虫類は、ほとんど恐竜だ。
しかも、この島の風景によくマッチしているから、自分が時空を超えてジュラ紀にいる気になってくる。
港から離れると、もうそこは本当に原生林と小さな田畑しかないド田舎だ。
しばらく走っていると、小さなお店を発見。店先には南国ならではの派手な色をしたフルーツがこんもり置いてあった。
ランブータンを一つ買って食べていると、中に「ボンジョビ」や「メタリカ」などのロゴのティーシャツがかけてあった。
これはどちらかというと土産物ではなく、地元の人の洋品店だ。
島の卸売業者が、都会でまとめて安いティーシャツを買ってきたのだろう。
時々「ガンズ&ローゼス」などのロゴ入りのティーシャツを着ながら畑仕事をしているおじいさんがいたりすると、すんげー笑えた。
そして店内をよく見ると「YOSIKI」のロゴを発見!
まさか、こんな恐竜のいる異国でYOSHIKIに会うとは思わず、びっくりした。

陽が傾き始めたところで、ホテルにチェックインした。
外観も内観も赤いハイビスカスが似合う南国風の高級リゾートで、各部屋が水上コテージのようになっていた。
部屋も最高で、エアコンはもちろん、窓から何もさえぎるもののない青く広い海が見えた。

まだ、少し時間があったので、水着に着替え、ホテル内にあるプールサイドのデッキチェアーで横になり、南国の花とフルーツがデコレーションされたジュースを片手に、美しい海に遠く赤くなっていく太陽を見ていた。
すると、近くの小さな石が動いた。
見ると、イグアナだった。

十分くつろぐと、今度はレストランで優雅なディナーだ
建物には壁がなく、心地よい夜風とかすかな波の音が聞こえ、さらに、バンドの生演奏が南国の一夜を素敵なものにした。
この時の印象はイーグルスの「ホテルカリフォルニア」だ。
一通り演奏が終わると、ボーカルの女性が「リクエストはありますか?」と聞いてきたので、俺はクランベリーズの「オダ・トゥ・マイ・ファミリー」を頼んだ。
夢のように心地よい時間だった。
このあと、その女性とバーカウンターで飲みながら、いろんな話をして過ごした。

翌朝、起きるとまずはホテルのプライベートビーチでいろんなアクティビティをした。
パラセイリングも面白かったが、水上スキーが一番楽しかった。
南国の広くて青い海を独り占めしているようだった。

午後からは、ワニ園、飛行場、水族館など、島内をバイクで回った。

ホテルに戻り、チェックアウトし、バイクで港に戻った。
バイクを返し、フェリーに乗り、クアラ・クタの町からタクシーでアロースターに戻る。
もうその頃は、マレー語でタクシーの運転手と会話できるくらいになっていた。
再び、夜行列車に乗って、寝ながらクアラルンプールに戻ってきた。
そして、行きと同じく、そのままの格好と荷物でタクシーに乗り、出勤時間と同時に会社に着いて、数時間前まで南国リゾート気分だったことはおくびにも出さずに仕事を始めた。


「季節の感覚がないから、出来事の時期を思い出せない」
と、よく現地にいる日本人が言っていた。
一応、乾季と雨季はあるらしいが、いつも高温多湿で、日本のように四季がはっきりしないので、長くいるとそんな感覚になるのだろう。
俺もそうなるのか、と思う頃、ようやく帰国の日が近づいてきた。
仲良くなった工場の奴らにそのことを伝え、一緒に写真を撮ったりした。
その中で、一人のマレー人の女の子が1枚の大きな自身の全身写真を俺に渡してきた。
裏には電話番号が書いてあった。
「ワタシ、アナタのことがスキ」
そこに言葉はなかったが、目と表情で想いが伝わってきた。

いろんな過ごし方を覚えたが、KL(クアラルンプール)の中心街にある「ハードロックカフェ」で過ごすのがお気に入りだった。
その日もたくさんの外国人と立ち話をしたり、音楽を聴き、「ここで飲むのも今日で最期かな」と思って、店を出ると、見覚えのある男とばったり会った。
あの、イカサマ博打を教えてくれたディーラーだ。
俺が「おーい!」と手を振ると、逃げるように去ってしまった。

マレーを出発する前日、俺の父親くらいの年齢の冨安さんが日本からやってきた。
俺と交代で、俺の住んでたマンションの部屋に入ることになっていたので、俺は部屋にある物や使い方、マレーシアでの生活の知恵などと説明した。
また、最期のナイトマーケットの日には、マレーシア音楽のCDやカセットテープを買い込んだりした。

「いろいろあったなぁ」
帰国当日、日本から来た時とさほど変わらない荷物をかばん1つにまとめ、俺は空港へ行くタクシーを待っていた。
様々なことを思い出していると、ふと、あの写真をくれた例の子のことを思い出し、「さよなら」だけでも伝えようと、もらった電話番号にかけてみた。
受話器からお父さんらしき人の声が聞こえた。
英語で話してみたが、通じない。
俺は簡単なマレー語で「ワタシ、○○さん、オナジ、トコロ、ハタラク。ワタシ、ニホン、カエル。ワタシ、バンゴウ、コソン、リマ、ラパン、トゥジョー、エナン・・・」と伝えた。

マレーシア編 完



ロミオの大冒険「西ヨーロッパ編」

「えいちゃーん!けんちゃーん!」
見慣れない空港で聞き覚えのある声がした。
俺は、おかんとパリのシャルル・ドゴール空港に降り立った。
声の持ち主はいとこの、ひーちゃんだ。
外は完全に夜で、とても寒かった。
3人でバスでパリに出て、とあるホテルに到着した。

次の朝、俺は寒さと疲れと時差からか、なかなか体が動かなかったが、おかんと「エッフェル塔」や「凱旋門」、「ノートルダム寺院」、「オルセー美術館」など、有名なパリの観光地を見て回った。
本当は「ルーブル美術館」も行きたかったが、クリスマスということで休館だった。
入り口の噴水に分厚い氷が張っていた。

とにかく外は寒かった。
あまりの寒さにメトロと呼ばれる地下鉄の駅から出るのをためらうほどだった。
さらに、とある雑貨屋で真っ赤な毛糸の帽子を買ってかぶった。
日本から上だけ紫のスキーウェアを着てきたので、お洒落な街の中でダサさが目立ってしまったが仕方がない。
翌日、ルーブル美術館に入って、1日中、作品を見て回った。
「モナリザだ〜!サモトラケのニケだ〜!」と美術の教科書でしか見たことなかった作品を生で見て興奮していたが、世界有数の美術館だけあって、館内は広く、作品数も膨大で、さすがに閉館時間までいると、飽きてきて、ゴッホもダビンチも一瞥して通り過ぎた。

2日間、パリに滞在したあと、俺はおかんとひーちゃんと別れ、スペインに行くことにした。
特に計画はなかったが、とにかく南へ行って寒さから逃れたかった。

日本で2週間有効の「ユーレイルパス」を購入しておいたのでお金を払う必要はなかったが、駅の窓口で行き先までの切符を発行してもらう必要があった。
英語で話すと売店員がフランス語で返すのでやっかいだった。

TGVに乗って、窓の外を流れる景色を見ていると、売り子がフランスパンとペットボトルを手渡してきた。
俺は「ノーノー」と言ったが、「フリー」と言ってきたので、受け取った。
見た目はただのパンだったが、今まで日本で食べてきたものより、断然おいしかった。

しばらくすると、近くに日本人らしき青年が座ってきた。
話しかけると、ロシアから東ヨーロッパを経由して来たと言う。
ビザの発行が面倒なこと、ビザの滞在日数に追われたことを話してくれたが、その時の俺には想像ができなかった。
これから「ディック・ブルーナ」に会いに行くという。
なんでも、ディックがよく作品作りに使っている喫茶店があるから、そこで待つのだそうだ。
旅の目的は人それぞれなんだ、ということを感じた。

陽が傾きかけた頃、バルセロナに到着した。
俺はバスで町が一望できる高い丘の上にあるホテルを目指した。
実は、事前に日本で「ユース会員」に加入しておいたので、ユースホステルを目指したのだ。
ホテル内に入ると、俺と同じような旅格好をした若者が大勢いた。
チェックを済ませ、決められた部屋に行くと、2段ベットがいくつか置いてあるドミトリーだった。
話しかけてみると、いろんな国から来ていることがわかった。
徐々に慣れてくるのだが、相部屋は初めてだったので、ガイドブック通り、荷物をロッカーに入れて自前の鍵をかけた。
さらに念を押して、貴重品の財布は頭上にくくりつけてお風呂に入ることにした。
風呂場に行くと、カーテンで仕切られたシャワーしかなかった。
ユースはこんなものか、と蛇口をひねると水しか出ない。
お湯に変わるかとしばらく待っても、一向に温度は変わらない。
仕方なく、軽く体を流したが、滝修行のようだった。

夕食はなかったので、日本から買ってきた「カロリーメイト」をかじって寝た。

よく朝起きると、朝食を食べに食堂へ行った。
昨日からまともな物を食べてないので、いっぱい食べてやろうと意気込んできたが、数に限りがあり、ティーバッグ1つと小さなパン2つと小さなバター1つだった。
とりあえずいただき、観光することにした。
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